その1 南Q太 『スクナヒコナ』
その2 岩岡ヒサエ 『土星マンション』
その3 坂田靖子 『黄金の梨』 全4巻
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きまぐれ偏食ノート まえがき
私は映画やドラマ、演劇といった集団が製作する表現物より、
小説や漫画といったより個人的な匂いのする創作物の方が好きだ。
音楽でさえ、ソロの演奏をより好む傾向がある。
オーケストラなんかは一生馴染めないだろうと思う。
ダンスやシンクロ、チアリーディングなどの集団芸術、さらには観客席のウエーブに至るまで、
全体が揃うこと素晴らしいとされる様式が、私にはどうも美しいとは思えないのだ。
誤解を恐れずに言えば、全体が一糸乱れず揃うなんてことは、どこか気持ち悪い。
これはもう、幼少の頃からの感覚なので、どうしようもないのだ。
自分が幼稚園の頃、他の園児たちの中で一緒に座っている時に、
ふと異和感を感じ、「僕は何でここにいるのだろう」と思った。
特にイヤな事があった訳ではないが、自分で望んだ訳でもない。
そこに皆といる事を、当たり前の事として受け入れられない自分がいた。
ある日、幼稚園にいく送迎バスに乗せられる時にハッと思いついた。
「僕は幼稚園に行かなくてもいいんじゃないか?」
気づかないうちに、うまく親たちに乗せられてバスに押し込まれ、
いつも幼稚園に行かなきゃならない事になってるけど、
言われるままになっているうちに、こうしてずっとずっと
いつまでも幼稚園に行かされる事になってしまうんだ。
その時バスの乗車口で、僕はそれに逆らうことができるんだと気づいたのだ。
幼稚園に行かないと泣きわめき、両手を突っ張って、地団太を踏みながら力の限り抵抗した。
いままでそんな事を言わなかったのに、なぜ突然と
親や幼稚園の先生、バスの運転手を果てしなく困らせた。
そんな形でしか抵抗できなかったが、あれは自分にとって初めての
目に見えない大きな集団的な力への、自覚的な反抗だった・・・
私はたぶん、個というものが埋没してしまうのを怖れているのだろうと思う。
知らず知らずに集団の持つ大きな力に呑み込まれて、自分を失ってしまう事。
全体の中の規律や暗黙の雰囲気の中で、自分の感覚が表に出せなくなってしまう事。
だから私は、地元意識といったような感覚も苦手だ。
自分の同級生や、母校や、県やら国やらの代表を応援する、そういう気持ちがないではないが、
それよりも、そこにまつわる集団的な動きや力そのものが怖くなる。
集団的パワーは、一定の方向づけをされることにより、
次第にエスカレートし、加速度的な力を持ち始める。
全体行動、同一行動こそ真、美、善であるとして、、
そこに当てはまらない、馴染まないものを敵視し、排除しようとするようになる。
持たされる目的意識が強烈になればなるほど、
意識を一点へ向けさせるシステムが強力であるほど、
それらの集団は軍隊的な、カルト的な性質を帯びるようになるのではないか・・・
スポーツなら、テニスや格闘技など、やはり個人競技が好きだ。
ゲームを見ていて、その人の内面や背負ったものが露わになり易いからだ。
1対1でおたがいの存在をかけて、自分をさらけ出しながら闘う。
試合を見ていて、その人が気に入ったなら興味を持つし応援する。
いやらしい部分が見えたら、地元だろうが、日本人だろうが嫌いになる。
それが自然ではないだろうか?
本当はどちらを応援などという次元でなく、
試合そのものが素晴らしく噛み合い、お互いが自分を表現し合って、
勝敗を度外視した昂奮と、切ないくらいの感動を与えてくれるのが最高なのである。
そこに映し出される本質をろくに見ようともせず、
狂騒的に、強制的に応援しなければならないなら、私はその場所へは行きたくない。
つまりは、私はこういった人間なので、いつも興味を持っている対象は
その人その人であり、個人の個々の作品であるという訳だ。
ここでは、そうした私が興味を持った作品、作家、人物を取り上げて、
ジャンル・分野を問わず、感じた事を気ままに記載していこうと思う。
それによって自分の中がいくらか整理できたり、
考えを吐き出してみることで、新たな感覚が得られればいいなと思う。
もしかしたら、ここを読んでくれた人に何らかの参考や刺激になれば
それは私にとって、望外の喜びとなるであろう。
(注)ここで上げる作家・人物については一部を除いて敬称略です。
特に作家を語るのにあまり先生先生というのは好まないし、
作家として名前を揚げている以上、それが自然だと思うので。
2007・8・22
DRAeGONs.com 管理人 SPキャロル